Hi, how r you doooing?
Hi, how r you doooing?
(なんと、相手の質問に答えずに、質問返しのパターンもある!大発見!)
3月末の事。次男のお誕生日会をきっかけに、生まれも育ちもニューオリンズ出身という地元っ子の知り合いが出来た。時期を同じくして、日増しにワクチン接種者も拡充し、コロナ陽性率も低下したせいもあり、ルイジアナ、ニューオリンズ、それぞれの政府も規制緩和の方に舵を切った。街に賑わいが戻り、観光客も増え、人との接触がこれまでよりも容易になった。この2カ月半を振り返ると、人と対面で話すことへの警戒心が自分の中でなくなっていることに気が付いた。
ESLの同じクラスに新しく日本人駐在員のご家族が入ってこられた。かつて、私が先生にした質問と同じことを聞いておられた。先生の回答は、極めて、教科書的なことを、一先ず教えてくれる。しかしながら、先生も仰っておられたように、言葉というものは、常に、
「文脈による」
これは何語であろうと同じなのだ。
これまで、私が毎度、ドギマギしながら、店員さんの"How r you doooing?"に狼狽えていたのも、文脈無視で、どうすればいいのか、とばかり考えていたからだろう。
"How r you doooing?"に含まれる意味は、一つではなく、使い方も一つではないのだ。全く知らない人と道端ですれ違う時にも、学校の送迎時に顔見知り程度の人にも、お店の店員が客に対する「いらっしゃいませ」程度の挨拶にも、久しぶりに会う友達にも。親しい間柄のお友達にも、おんなじ"How r you dooing"を使っている。けれど、意味合いは全然違う。軽い挨拶で交わした言葉に対して、昨日あった辛い出来事、楽しい出来事など、打ち明けられても、相手も困るのだ。
そんな当たり前の事であっても、自分のものになるまで、人にどんだけ言われたって、わかりゃしない。「なるほど」、とは思えても、それは、自分のものではない。自分のものになって、初めて、わかった、というのだろう。
「ことばは、3回使えば、自分のもの」
ESLの先生が言っていた。
「ただ、教えてもらったのだけでは、忘れてしまうだけで活かせない。それは自分のものになっていないということ。3回使えば、(3回以上だろうけど)もう、それはあなたのものよ。」
言葉の主体は、自分だ。けれど、それを履き違えると、相手の話や周りの話を聞かずに、我こそが練習せねば、と、話したがる人が出てくる。それも違う。相手との関係性によって、意味が変わってくる性質を持つのが、言葉、の正体だと思う。我先にと話をする人に心を開いて話してくれる人がいるであろうか。信頼関係が先だ。信頼関係があれば言葉など、究極、要らないと思う。
とは言え、勿論、カッコよく、喋れるようになりたいなぁ、という想いはある。たくみに話すネイティブ同士の会話の中に、ニコニコと、分かった素振りで紛れ込み、ふと、回ってきたバトンに、頓珍漢な回答をすることなど、日常茶飯事。私が発する超原始的な英語にそれまで笑顔だった周囲の顔色がどんどん強張っていく瞬間など、もはや、恥ではない、ってくらい経験済み。
カッコよく、喋れはしないし、分かる会話、分からない会話、が入り乱れ、なんとか自分が困らない、相手を困らせない程度に会話を終結させる程度の会話力。言葉が育つ初期の過程(ESLに通う必要のあるレベル)は勉強ではない、暗記ではない、と信じているので、もうかれこれ20年以上、英語の勉強など、したことがない。ESLの授業でも、先生方がそんな私の熱い思いを汲み取ってくれ、所謂、勉強形式の授業は行わない。(勉強したい人には、申し訳ない。)
けど、どうしても受けたい授業があって、仕方なく、、、
取り敢えず、受けたい授業を受講するには、足りない英語力を補う必要があるというので、仕方ない。コミュニティカレッジに通うためのお勉強を夏が終わったら始めようと思う。